写研から数多くの新書体が生まれた1960~1990年代にかけて、その誕生に大きくたずさわったのが、橋本和夫さんと中村征宏さんです。橋本さんは写研における書体デザインの責任者として、その時期に生まれたほぼすべての書体の監修を担当。そして中村さんはフリーランスの書体デザイナーとして、数々の斬新なデザインを生み出し、時代をつくってきました。内と外からそれぞれ写研書体を支えたおふたりに対談していただきました。(聞き手・文:雪 朱里/写真:髙橋 榮)
ふたりの出会い
—— 1970年(昭和45)春、第1回石井賞創作タイプフェイスコンテストの結果が発表され、全118点の応募作のなかから中村さんの作品「細丸ゴシック」が第1位になられました。おふたりの出会いは、そのころですか?
4月1日に石井賞受賞のお知らせをいただき、表彰式が5月18日におこなわれたんですね。橋本さんにお会いしたのはその後、6月ごろだったでしょうか。
そうですね。授賞式が終わって、一段落したタイミングでしたね。
授賞式のあと、まず名古屋で石井裕子社長とお会いしたんです。
そのあと、この「細丸ゴシック」(のちのナール。以下、ナールと記述)を写研で写植書体にしたいということになって。石井裕子社長とぼくとで打ち合わせをおこない、中村さんに原字制作をお願いしましょうということになって、愛知からお呼びした。
東京の写研本社にうかがいましたね。
それでぼくは初めて中村さんにお会いして、われわれがお願いする原字のことだとか、どうやって制作を進めていくのかを打ち合わせさせてもらいました。写研からの希望を伝えて、そこで合意をいただいた。それで、「この文字をつくってください」と1級文字の字種リストをお渡ししたんですね。
写研の文字盤は「一寸ノ巾(いっすんのはば)」という文字配列を採用していたんですが、そのなかでも一番使用頻度の高い文字が1級に分類されているんです。「山」「川」みたいな、小学校でいえば3年生ぐらいまでに習う文字が1級。2級はそれに準ずる常用漢字です。そうした漢字のなかで、まず1級から原字制作に着手していただきました。
コンテストのはじまり
—— そもそも第1回ということで、写研として初めておこなうコンテストでしたが、その準備段階で、橋本さんはどのようにたずさわっていらしたんですか?
ぼくはコンテストの企画運営そのものには関わっておらず、課題の文字を選びました。
—— 募集要項をつくられた。
そうです。コンテストをおこなうと決まったときに、「どの文字を書いて応募してもらうのか」という話になった。それはやはり、ふだん書体設計をおこなっている人が、書く立場から考えたほうがよいだろうということで、ぼくが決めることになったんです。
書体デザインの審査とはいえ、未経験の方々に「1,000文字書いて応募してください」というのは無理な話でしょう。かといって、われわれが新しく書体をつくるときに基準にする書体見本12文字のような、ごく少ない文字数では審査することができない。やはり書体は文章を組んだものを見ないと、その良し悪しが判断できないんです。文章を組版するには、ある程度の数の漢字と両仮名、句読点や括弧などの約物類、数字が必要になりますよね。
—— 最終的に、ひらがな、カタカナ、数字、記号11種類、漢字55文字で、合計176字に決定したと。漢字55文字はどのように選んだのですか?
写植の文字盤で用いられた「一寸ノ巾」配列は、見た目の特徴的な要素から漢字を分類した配列方式なんです。全51種類の基本見出しから、最初のほうの文字にすれば、冠旁偏脚の代表的な形を選ぶことができるんですね。
もう一つのポイントとしては「見やすい字」です。たとえば「麤」みたいな字を選んでしまったら、いいのか悪いのか、さっぱりわからない。ふだんからよく見かけるやさしい字を選びましょうと。そうするとだいたい1級の文字、ときどき2級の文字が混ざるぐらいになる。
あとは、デザインの個性が出やすい文字ですね。漢字に「国」と「東」が入っていますが、この2文字でその書体の個性がだいたいわかるんです。「国」で漢字の大きさが、「東」で文字のフトコロがわかる。「東」のなかの「日」の部分が狭ければキュッと締まった文字になりますし、広ければ豊かな字になる。そうすると、ほかの文字はそれに適応したデザインが必要になるわけですね。要するに、デザインの統一性を見ることができる。そうやって選んでいきました。
—— ひらがな、カタカナには濁音と半濁音が含まれていますね。
われわれが仮名をデザインしていて一番困るのは、濁点や半濁点をどうつけるか、なんです。いろいろなつけかたがあるから、実はデザイナーが一番主張できる部分でもあるんですね。文章を組んだときに、その仮名をどう見せたいかをデザインできるのが濁点、半濁点なんです。濁点は、縦2本でつける人もいるだろうし、斜めにする人もいるだろうし。つける位置も、いろいろ考えられる。そういうところを見たいから、カ、サ、タ行は濁音、ハ行は半濁音にしました。
—— 数字もありますね。
漢字と仮名さえあれば日本語の文章は組めると思いがちだけれども、実際には、数字は仮名に準ずるぐらいの頻度で登場します。だから、漢字や仮名と合わせたときに数字が統一のとれたデザインになっているのが、よい書体なんですね。たとえば中村さんの「細丸ゴシック」で数字が急に隷書風のデザインだったら、あるいは、数字だけ角ゴシックだったとしたら変でしょう。
—— 目立ち過ぎてしまう。
そう。でも中村さんの「細丸ゴシック」は、数字のデザインが漢字や仮名と統一感があり、なんの違和感もなくデザインされていた。
—— そして、約物も入れた。
約物の内容も、使用頻度で決めました。読点「、」と句点「。」は文章で必ず使いますし、よく使われる括弧類とか、「!」「?」とか。
ですから、課題の文字を決めるうえでは、はじめに漢字を選び、仮名の内容を決めた。そうして、この漢字や仮名に対していかにデザインが合致しているかを見るために、数字と約物類を選んだということなんです。
—— 応募された文字で、実際に組版をしたのですか?
応募パネルから仮の文字盤をつくり、組版をして審査しました。書体デザインの審査をするのに、パネルの状態でOKというわけにはいかない。われわれのつくる書体というのは、あくまでも文章を構成する一つの部品にすぎません。製品にするのであれば、文章にしてみないことには、品質が判断できませんから。
—— 今日はここに、中村さんが第1回 石井賞 創作タイプフェイスコンテストに応募なさったときのパネルがあります。当時、実際に中村さんが応募された実物です。大きいんですね。
B全判(縦728×横1,030mm)のパネルですね。
1文字は48×48mmと決まっていて、それを指定のレイアウトに並べるとこのサイズになるんです。
—— 48mm角。
当時の写研で使用していた原字サイズですね。
写研のコンテスト事務局に募集要項を請求すると、書類一式が入った封筒が送られてくるんです。そのなかに1文字の大きさが48×48mmの原図用紙が必要文字数分+予備分の枚数入っており、この用紙を使わないとだめという決まりでした。そこに書いた原字を自分で切って、このパネルのようにレイアウトして貼りつけて、国鉄便で送りました。
—— そうして、募集要項に同封されている制作意図や申込の書類を添えて、提出したんですね。
そうです。細丸ゴシックのパネルは、当時私が持ち込んだ応募パネルそのものでしょうか。
—— そのものです。ほんの少しですが、ホワイトも入っていますね。
そうですか? 自分ではけっこうホワイトを入れた印象なんですが……。
原字の実物を貼っているんですよね。応募パネルには、原字の複製は貼ってはいけないことにしたんです。コピーを貼ってよいことにすると、いくらでも真似ができてしまいますから。
これ、原字を書くのはいいんだけれど、そのあと貼るのが大変なんです。ただ貼るだけでは文字が傾いたり、曲がったりしてしまいますから、ちゃんと線を引いて、センターを合わせて貼らなくてはいけないですもんね。
そうですね。大変でした(笑)。
—— 中村さんは、デザイン誌『アイデア』(誠文堂新光社)に掲載された募集広告をご覧になって、コンテストに応募されたんですよね。それまで、看板やテロップを通じて文字を書くお仕事はなさっていましたが、書体をつくったことはなかった。
参照:中村征宏氏「私が手がけた写研書体 ~ナール誕生秘話~」
一度もなかったですね。
—— 初めてコンテストの応募課題176字を書いたとき、いかがでしたか。
コンテストのことを知ったのは締切の3カ月前ぐらいだったんですが、間に合うように書けましたので、それほど大変ではなかったのだと思います。しかし製品化のためのナールの原字制作が始まってからは、ちょっと大変でしたね。5,800字ありましたし、進めるなかで問題も出てきて、1,000字ほど丸々書き直しましたし。
—— 1,000字……!
ナールの書き直しはなぜ起きたのか?
「え?」って思いました。
1カ月に400~450字ずつ原字を仕上げて、東京の写研宛にお送りし、監修の橋本さんに見ていただいていたんですね。
—— 毎回その文字数の原字を納めて、それがOKとなれば、権利も含めて写研が買い取るという契約だった。
はい。1回目、2回目はOKをいただいたんですが、3回ぐらいお送りしたところで「ちょっと字形が変わってきている」とご指摘を受けてしまって。私の記憶では1,000字ほどを丸々書き直しました。
—— すべて手書きの時代に、1,000字の書き直しは大変なことですよね。
ショックを受けました。でもとにかく納品しなくてはいけないから、書き直さざるを得ないという状況で。「なんで見本をしっかり見ながら書かなかったのか!」ってとても反省したんです、このときは。
—— 書き直しが発生するまでは、見本などは特に目の前に置かずに、ご自身の感覚で書いていらした。
「自分の書体なんだから、わかってるだろう」と思って書いちゃったんですね。物事は徐々に変わっていくことに気がつきにくい。
いや、違うんです。ぼくが悪いんですよ。中村さんとの最初の打ち合わせで、「この文字をつくってください」と字種リストをお渡しした話をしましたよね。そのリストが、石井太ゴシック(BG-A-KL)で印字されていたんです。
私、あのリストの石井太ゴシックに影響を受けちゃったんでしょうか。
そうなんです。
ああ……。
これは推測ですよ。推測だけれども、原字を書くとき、頭のなかで思い浮かべて書くのではなく、字種リストを見るじゃないですか。それをぼくが石井太ゴシックで渡してしまったものだから、中村さんは影響されてしまったんじゃないかと思うんです。そんなつもりはなくても、文字を見ているうちに、だんだん印象が入ってきてしまう。石井太ゴシックはスタンダードな形をした書体ですから、かっこよく見えてしまうわけですね。そして、自分の原字を「かっこよく書こう」と思っているうちに、次第に影響を受けたんじゃないかと……。
中村さんの「ナール」は「まさかここまで崩すとは」というぐらいに文字のフトコロが広い書体で、文字の形をそれだけ崩すのは、かなり勇気がいるはず。だから、石井太ゴシックのリストを見ているうち、それと同じとまではいかなくても、コンテスト応募文字に比べて少しずつフトコロが狭くなっていった。1文字で見ていてもわからないんですが、数がまとまってくると、雰囲気としてはえらく違ってくる。
だから、原字制作をお願いして最初の400字が届いたときは、ぼくも「ん?」と思いつつ、「いいだろう」と思ってOKした。次に2回目の400字が送られてきたとき、「あれ? 応募文字と違うの?」と思った。でも、つくった本人が書いているのだから、こういうものなのかな、と。それで「まあいいや」と思ってOKを出した。次に3回目の400字を受け取ってようやく、まったく違う書体になっていることに気がつきました。
—— 書体が変わってしまっていた。
「東」の「日」の部分をすごく大きく書いていたはずが、だんだん小さくなると、印象がまるっきり変わっちゃうんですね。中村さんがおっしゃるとおり、少しずつの変化には気がつきにくい。つくるほうもそうですけど、でも、それを見逃したというのは、監修者のミスだとぼくは思います。
いやいや、書くほうのミスですよ。
書体を監修するということ
いやいや。監修者は必ず「いい」か「悪い」か言わなくちゃいけないわけですから、「まあいいや」なんてわけにはいかないんです。「OK」と合格を出したら、その原字は買い取りで、お金を払わなくちゃならないわけですから、「いいよ」と言った人には責任がある。あのときは本当に……。ぼくも、あのころはまだ素人だったんでしょう。
そんなことはないでしょう。
だって、ぼくが写研に入ったのは1959年ですから。ナールの監修を始めたのは35歳ぐらいのときです(1970年)。その前にモトヤで活字用のベントン原字を書いていたとはいえ、写研で原字を書き始めてから10年ぐらいのころですよ。ほんとうはまだ生徒でいいぐらいで、「この書体はいい、悪い」なんて言えるような経験年数じゃないんです。たまたま原字部門の責任者に置かれていたものだから、しょうがなかった。
そうなんですか。
—— 橋本さんが監修をなさるようになったのは、石井茂吉氏が1963年に亡くなられた後ですよね。
そうです。石井先生がおられたときには、ぼくは監修をやっていません。先生が亡くなられて、原字制作においては、石井裕子社長の下がいきなりぼくになってしまった。だから、そのころはまだ、ぼくの見方が甘かったんだと思います。
—— 監修をするようになられて、まだ7年ぐらいだった。
1,000字もの書き直しを発生させてしまって、「ああ、監修というのはこういうことなんだ」と、意識が大きく変わりました。ものの見方や、その結果を相手にどう伝えるのか。OKと言うことがどういう責任を伴うことなのか。それがわかって、ぼくは生まれ変わらせてもらったと思います。中村さんのおかげです。えらい高い月謝を払いましたが。
それは私も払いましたよ。
—— ナールを製品化しようということになって、中村さんが毎月原字を納めるようになった、最初の3回でそれが起きた。
そうです。製品化のための原字制作を始めた、最初の3回です。
だからそのときは、中村さんの原字が届いて一度はOKを出したけれど、1,000字書き直してもらうことになったという経緯を石井裕子社長に説明しました。えらい怒られましたよ。ぼく、写研を辞めちゃおうかなと思ったぐらい。いまでは笑い話ですけど(笑)。
そんな……。橋本さんが辞めてしまっていたら、私の責任になったんでしょうか(笑)。
いや、それはないですよ。中村さんも1,000字も書き直して大変な思いをされたと思いますし、実は写研のなかでも、そういうことがあったという話です。
びっくりしました。今日初めて聞きました。
だから、ぼくは89歳のいまでも書体監修をしてますけど、監修の仕事では、そのときのことが一番記憶に残っていますね。ぼくのミステイク。中村さんには、本当に申し訳ないことをしました。
—— じゃあ、ナールのときは軌道に乗るまでが大変だったんですね。
大変でした。1,000字のやり直しで懲りたので、その後は自分で書いたナール8字の見本を常に机に置いて、それと比較しながら制作を進めるようにしましたら、その後は一切、書き直しはなくなりました。
第2回を読む(近日公開予定)